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囲碁-定石に見る標準 囲碁棋士 星合志保

2020/07/06

2016年、囲碁界に衝撃が走りました。当時、世界チャンピオンと称されていたイ・セドル九段が、囲碁AIアルファ碁に敗れてしまったのです。囲碁AIがプロ棋士に勝つには、まだまだ時間がかかると思われていましたが、世界チャンピオンを圧倒したその実力は、新たな時代の到来を予感させるものでした。

囲碁は完全情報ゲームです。お互いに最善を尽くせば、必ずどちらか一方が勝ち続けます。ですが、囲碁の長い4千年の歴史でも(そして囲碁AIでさえも)、その“正解”に辿り着けていません。その理由は、囲碁には無限とも思えるような膨大な変化があるからです。その数は10の360乗を超える(!)とも言われています。

そんな無限の変化がある囲碁には、道標のようなものが存在します。「定石」と呼ばれるものです。定石は、長い時間をかけて囲碁の研究をしていくなかで、おそらく“正解”に近いであろう、と結論づけられた手順(一連の流れ)のことです。

定石は、料理を作る時のレシピに似ていると思います。その定石の手順を知っていれば、プロでもアマでも初心者でも関係なく、その一部分だけは同じ様に打つことができます。つまり、定石は囲碁における一種のスタンダードのようなものです。

また、料理に隠し味や小技があるように、定石にも人それぞれの個性やアレンジを加えることが可能です。手順を少し変えてみたり、新たな手を打ってみたり…。時には失敗を繰り返しながら、私たち碁打ちは新しい手を見出してきました。

現代まで変わらずに脈々と打ち継がれている古い定石もありますが、ほとんどの定石は時代とともに徐々に改良されてきました。今では全く使われなくなったものも数多くあります。それは、私たち碁打ちの囲碁に対する評価や捉え方の変化によるものです。長い時間をかけて、少しずつ人間の囲碁が進歩してきたことの証明でもあります。

ところが、冒頭で少しお話ししたアルファ碁の出現は、今まで人間が積み上げてきた価値観を大きく一変させるものでした。

当時私は、アルファ碁vsイ・セドル九段の一局を中継する番組の進行役を務めており、リアルタイムで観戦していました。
アルファ碁の打つ手はどれも新鮮で、独創的なものばかりでした。それどころか、今まで人間がダメだと思い込み、全く考えたことのない手を多用したのです。解説している棋士も言葉を失っているのがわかりました。私たちのなかのスタンダードが崩れだした瞬間でした。

囲碁AIの示す手に、はじめは多くの棋士が戸惑いました。ですが、次第に自分の碁に取り入れていくようになります。囲碁AI発祥の、いわゆる「AI定石」が人間同士の碁で数多く見られるようになってきたのです。そしてそれと反比例するように、囲碁AI登場前に流行していた定石の多くは今ではほとんど見かけなくなりました。

5年前には囲碁界全体のスタンダードであった定石も、今改めて見ると少し違和感を覚えたり、ちょっとずれているような感覚になります。囲碁AI登場からの現代囲碁はものすごいスピードで変化してきているのです。

さて、ここまで定石の変遷についてお話してきました。それに対して、今でも変わらずに打たれ続けている定石もあります。その中でも特に有名な “秀策のコスミ” をご紹介します。

秀策は江戸時代末期に活躍し、生涯通算19勝無敗の戦績を誇った天才棋士です。秀策が編み出した、のちに“秀策のコスミ”と呼ばれることになる一手は、当時は意外なことにそれほど注目されていませんでした。ですが、秀策は「この手が悪手になることはまずないだろう」と語っていたそうです。秀策の死後、それほど高頻度ではないものの、秀策のコスミは廃れることなく打ち継がれていきました。

そしてAI時代となった今、秀策のコスミは脚光を浴びる事になるのです。なんと、その手が囲碁AIの第一候補手と一致していることが分かったのです。それから更に研究が進み、今や世界中で大流行と言ってもいいほどに打たれています。

流行り廃りの激しい現代囲碁の中で、数百年にわたって打ち続けられていることは本当に凄いことです。この事だけでも秀策がいかに天才的な碁打ちだったかが分かると思います。
また、今では人間が囲碁AIに勝つのは不可能と言われています。そんな中、人間の発想や考えの一部分でも囲碁AIに匹敵するというのは棋士にとって非常に励みになるものでした。

更に言うならば、秀策のコスミのような時代を越える一手の発見は、これから先も充分に起こり得ることだと言えます。

私たち棋士の中から、あるいは次の世代の棋士の中から、この先何百年も打ち継がれていくような、歴史に残る一手を打つ人が現れるかもしれないのです。囲碁AIの作り出したスタンダードも完璧ではなく、人間がそれを越える手を見つけることも十分可能なのではないかと私は考えています。私たちが試行錯誤しながら編み出した一手が、はるか未来の碁打ちたちへと受け継がれていく。そんなことを想像するだけで、なんだかワクワクしてきませんか?



星合志保(ほしあいしほ)  囲碁棋士

1997年4月16日生まれ。東京都出身。2013年、日本棋院の囲碁棋士になる。2019年4月からNHK杯テレビ囲碁トーナメントで司会を担当。YouTubeでも精力的に活動している。趣味は人狼ゲーム、アニメ、漫画、アイドルなど。