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「自由の相互承認」とフェアな経済ゲーム 哲学者・教育学者 苫野一徳

2020/07/01

 今回、熊本大学教育学部准教授の苫野一徳先生に、『「自由の相互承認」とフェアな経済ゲーム』というテーマでご寄稿いただきました。
 近年、貧富の格差拡大、排外主義の台頭がフェアな経済ゲームを脅かしています。こういった根本問題を解決するのに哲学は役に立つのではないでしょうか。
 哲学×経済×ビジネスの橋渡しをした大きなテーマとなります。企業で活躍される皆様におかれましても、今一度、自由な市場経済を続けていくことについて考えてみませんか?

人間精神の大革命

 人類は、250年ほど前に「精神の大革命」とも呼ぶべき大事件を経験しました。
 それまでの何万年にもわたって、人類は、人種が違えば奴隷にして当然、宗教が違えば殺して当然、身分差別があるのは当然だと考えていました。ところがこのわずか250年ほどの間に、私たちは、人類は皆、対等に自由な存在であるという考えを持つようになったのです。
 これを、哲学では「自由の相互承認」と呼んでいます。現代の私たちは、どんな生まれでも、人種でも、宗教でも、他者の自由を侵害しない限りその生き方や考え方が承認されます。そしてこれは、人類が長い戦争の歴史を通して、もういい加減こんな命の奪い合いはやめにしたいという切実な思いによって見出された、英知の中の英知と言うべきものなのです。
 この考えが生み出されたのは、当時、まさに長い宗教戦争などに苦しみ続けてきた、ヨーロッパにおいてでした。ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)やG.W.F.ヘーゲル(1770〜1831)といった哲学者が、この思想を築き、磨き、そして伝播させてきたのです。
 これがどれほどの人類史上の大事件であったかは、どれだけ強調してもしすぎることはありません。今の私たちは、誰もが同じ人間であるという、300年前にはほとんど誰も考えたことも感じたこともないような価値観・感受性を持っているのです。
 以来、この考えに基づく民主主義社会が、じわりじわりと世界中に広がっていくことになりました。
 その結果、人類の暴力は激減することになりました。これまで、民主主義国家同士の戦争は一度も起こったことがありません。独裁国家の場合、独裁者が戦争をするぞと言えばできてしまいますが、人民による人民のための国家においては、ほとんどの人が戦争なんて望みません。民主主義の深化と拡大は、その意味において、人類の自由と平和のために欠かせないことなのです(非民主国家やテロに対しては、残念ながら、相手国や組織への不信や恐怖から戦争を始めてしまうということがまだあります)。

民主主義の危機

 しかしながら、今日、民主主義の危機が指摘されるようになって久しい状態が続いています。
 一つの大きな理由は、いわゆるグローバル資本主義の台頭です。グローバルな過当競争が巻き起こると、国家は、一般庶民をいくらか犠牲にしてでも、その競争に打ち勝てる一部の資本家たちに有利な政策を打ち出していくことを余儀なくされるからです。
 その結果、富の格差は広がるばかりです。よく知られているように、今では、世界の上位1%のスーパーリッチが持つ富が、残り99%の人の富を超えてしまっています。
 不満を持つ人びとは、皮肉にも排外主義へと走ります。自分よりももっと弱い立場の人たちを、自分たちを脅かす者として、まるでスケープゴートのように攻撃をし始めるのです。自分たちの仕事を奪っているなどとして、移民を排斥する運動などはその典型です。
 このように、人びとの間に不公正感やスケープゴートを見つけようとする意識がたまっていくと、「自由の相互承認」は危うくなります。民主主義は、今、大きな危機の中にあるのです。

フェアな経済ルールを作り直す

 では、どうすればよいか。
 奇抜な策はありません。ただ王道を行くのみです。国際的な、よりいっそうフェアな経済ルールを作り合うこと。そして、よりフェアな富の再分配を行うことです(もう一点、教育の重要性を挙げなければなりませんが、今回は割愛します)。
 世界経済、あるいは国内経済は、今、一部のスーパーリッチや企業の都合のよいように動いてしまっているところがあります。アメリカでは、グローバル企業が、力あるロビイスト集団や超有能な弁護士軍団を従えて、議会に働きかけ、自分たちの都合のいい法改正まで次々と実現させている始末です。
 こうした動きに待ったをかけて、フェアな経済ルールをもう一度作り直さなければなりません。むろん、大変な労力と意志を要することです。しかし、自由で平和な社会のために、私たちが向かうべきはその道のほかにないはずなのです。
 実は歴史的に言って、自由な市場経済の発展は、「自由の相互承認」の考えが生まれるための大きな原動力でもありました。それまでの封建制において、大多数の人びとは、土地に縛られ、作った農作物の大部分を領主に納めなければなりませんでした。移動の自由も、職業選択の自由もほとんどなかったのです。
 それが、交易が広がり、自分の力で自分の自由を獲得できることに気づいた人類は、長い時間をかけて、フェアな経済ゲームという道を考え出したのです。誰もが、対等なルールゲームのプレイヤーとして経済ゲームに参加し、できるだけやりたい仕事をして、できるだけ自由な人生を築き合う。(そのためには、言うまでもなく特権的なプレイヤーがいてはいけません。)
 むろん、失敗したり貧困に陥ったりするリスクは常にあります。しかし、そのリスクは誰にでもあるものですから、その場合は、社会全体で支え合う。要するに、福祉政策ですべての人をしっかり守る。これが、「自由の相互承認」を考え出した哲学者たちの、経済についてのプログラムでもありました。
 この原点に、私たちは立ち帰らなければなりません。
 スポーツでも何でも、より楽しいものでありうるよう、ルールは常に見直されます。プロスポーツにおいて、資本力の差等で、特定のチームが一人勝ちし続けるような場合も、それがそのスポーツの魅力を失わせるものと合意されれば、新たなルールが作られたりします。
 経済ルールも同じです。私たちがこれからも自由な市場経済を続けていくことが必要だとするならば、これに参加しているすべての人が、そのルールゲームを楽しめることが重要なのです。そのためのルールを、そしてその設定の方法を、私たちは知恵を出し合い、常に更新し続けていく必要があるのです。



苫野一徳

哲学者・教育学者 熊本大学教育学部准教授
主な著書に 『「学校」をつくり直す』(河出新書)、 『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書) 、 『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、 『「自由」はいかに可能か』(NHKブックス)、 『教育の力』(講談社現代新書) 、 『勉強するのは何のため?』(日本評論社) 、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ) がある。